2021年の10月頃、日本製鉄が重要顧客であるトヨタ自動車(以下「トヨタ」)を訴えたことが話題になりました。この訴訟を意思決定した日本製鉄の「経営判断」プロセスを研究します。この案件は経営戦略のなかでどう訴訟を活用するかというテーマを考える大変良い題材と思うからです。
1 事案の概要
当時の状況
日本製鉄は2019年に就任した橋本英二社長のもとで構造改革し、業績をV字回復させました。
日本製鉄の橋本英二社長「危機の真因は10年前の経営統合」:日経ビジネス電子版
このインタビューは橋本英二社長の経営者としての凄みを感じさせる内容です。そのなかでも特に印象的だったのが「論理と数字で導き出された結論には従わなきゃいけない」という言葉。
橋本社長は論理を感情に優先させることができる方のようですから、論理的に考え、トヨタを訴えるという結論に至ったのでしょう。
事案の概要
概要としては、日本製鉄が、電動車のモーター材料となる鉄鋼製品「電磁鋼板」で自社の特許権を侵害されたとして、鉄鋼メーカーの宝山鋼鉄、商社の三井物産、ユーザーのトヨタの3社を訴えた事案です。図にすると以下の通り。
訴訟の法律構成
特許権者は業として特許発明の実施をする権利を独占しています。したがい、第三者が正当な権限なく特許範囲の技術を用いた製品を生産、使用、譲渡等する(特許法2条3項)と特許権侵害となり、特許権者は差止請求(特許法100条)や損害賠償請求(民法709条)が可能です。
たとえ最終メーカーが特許侵害を知らなかったとしてもターゲットとなる。特許権者の立場からすると最終製品の販売を差し止めることが一番効果的だから、侵害の認識有無に関わらず最終メーカーを被告とするのが定石でしょう。
こういった訴訟は鉄鋼製品に限らず、半導体、機能樹脂など様々な工業製品で昔からよく見かけます。法律構成に目新しさはありません。
本件の特殊性
しかし、日本製鉄にとってトヨタは重要顧客。この重要顧客を訴えたという点こそが本件の特殊性であり、世間の注目を浴びた理由です。
2 なぜ訴えなければいけなかったのか(必要性)
なぜ日本製鉄はこのような訴訟を起こしたのか。それは、この特許侵害が日本製鉄の経営戦略の根幹を脅かす恐れがあったからではないでしょうか。
日本製鉄の2022年度統合報告書をみると、経営戦略の一つとして「注文構成の高度化」が掲げられています(統合報告書2022 _17P)。
「注文構成の高度化」とは、利益率の低い汎用的な製品の生産能力を削る一方、利益率が高い高付加価値商品(高級鋼)のウェートを増やすということです。
鉄鋼業は装置産業で巨額の固定資産は避けられません。そこで、注文構成を高度化するなどして利益率(Return)の方を改善することでROE(自己資本比率)やROIC(投下資本利益率)を向上させることを目指しています。
今回争いの対象となった「電磁鋼板」は高付加価値商品(高級鋼)の代表格です。この商品で特許を侵害されることはその経営戦略の根幹を脅かすものでしょう。
3 なぜ重要顧客を訴えるリスクがとれたのか(許容性)
しかしながら、重要顧客に対する訴訟というのは一つ間違えると命取りになります。仮に勝訴しても、重要顧客から取引を縮小されてはかえって事業価値が棄損するからです。
なぜ、日本製鉄は、このような決断が出来たのでしょうか。
私は、日本製鉄が両社の力関係が変化している状況をとらえてリスクをとったのではないかと推察します。以下詳述します。
日本製鉄のトヨタ依存度
日本製鉄の統合報告書や有価証券報告書に、トヨタという言葉は出てきません。ただ、「受注生産の「紐付き契約」が当社の鋼材販売の過半を占める」という記載があり(統合報告書19P)、トヨタとの契約はこの「紐付き契約」であると思われます。
また、日本製鉄の生産拠点の過半の事業領域は「自動車」です(統合報告書の59P)。
トヨタ向けの販売は日本製鉄のなかでかなりのシェアを占めていると推察されます。
トヨタの日本製鉄依存度
一方、日本製鉄がまったく鋼材を供給しなければ、トヨタが予定通りの自動車生産は行うことはできないでしょう。トヨタの自動車生産はそれなりに日本製鉄からの供給に依存していると思われます。
両者の力関係の変化
このように両者が相互に依存する関係である場合、両者の力関係は、その時々の状況によって変化します
上述の日経ビジネスのインタビューによると、橋本英二社長が就任した2019年には日本製鉄の粗鋼生産の5分の1程度が余剰生産能力であったようです。こうなると日本製鉄は「なんとか買ってください」という立場となり、力関係は弱くなります。
一方、この訴訟がおきた2021年後半には、橋本英二社長の構造改革で粗鋼生産の余剰能力は絞られてきていました。そこにきて、世界はコロナショック後の世界経済の復活と中国の生産抑制により鋼材需給がタイトになっていました。こうなるとむしろ供給不足となり、日本製鉄側の力が強くなります。
日本製鉄は、パワーバランスが代わり自社の立場が強くなっていることをふまえ、トヨタを訴えても取引を大幅に縮小されることはないと見通したのではないでしょうか?
4 日本製鉄の海外戦略との関係
ついでに、宝山鋼鉄を訴えたことについても考えます。
中国事業のパートナー
宝山鋼鉄は、中国最大の鉄鋼メーカーである宝武鋼鉄集団の中核事業会社です。そして、この宝武鋼鉄集団は、日本製鉄の中国事業におけるパートナーです。(統合報告書2022、58P)
つまり、日本製鉄は、中国事業におけるパートナーをも訴えたことになります。
海外市場での熾烈な競争
しかし、日本製鉄にとって宝山鋼鉄は、今後鉄鋼需要が伸びていくASEAN、インドで戦う競合としての側面が強いでしょう。
日本製鉄は粗鋼生産量で世界4位のシェアを誇るものの、圧倒的な世界1位は宝武集団です(統合報告書2022、54P)。この宝武集団の生産量シェアは中国の旺盛な鋼材需要に支えられています。
しかしながら、今後、中国における需要は頭打ちになることが想定される一方、インドやASEANの鉄鋼需要は増えていくことが想定されています。インドやASEANでの競争は一層激化することが想定され、宝山鋼鉄ならびに宝武集団は日本製鉄の最大の競争相手の1社でしょう。日本製鉄の統合報告書にはインドやASEANに重点的に取り組む方針が書かれています。
日本製鉄にとって宝山鋼鉄は競合としての側面の方が大きく、訴訟を遠慮する必要はなさそうです
5 まとめ
以上、日本製鉄が重要顧客であるトヨタ社(や宝山鋼鉄)を訴えた「経営判断」について分析してみました。もちろん私は部外者で、内部事情などは一切知りません。公表されている情報をベースに推察しただけです。
企業法務の世界では、訴訟はビジネスで勝つための手段にすぎません。勝訴・敗訴の見込みよりも大事なことは、訴訟という手段を使ってどうやってビジネスでの勝率を高めることができるかです。
とはいえ、重要顧客を訴えるという判断は誰でも出来ることではありません。「日本企業もついにこういう訴訟をするようになったか」という印象です。思い切った経営判断ができる日本製鉄という会社の今後に期待しています。